2010

三日間だけの展示「Magic Piece」のお知らせ/2016.3.16
急なお知らせとなりますが、4月1日(金)から3日(日)までの三日間、大阪の中津にあるミミヤマミシンにて、鈴木篤のこれまでの仕事(グラフィックやプロダクト)を展示致します。一部、未公開のプロトタイプなども展示予定ですので、制作プロセスもご覧いただけるかと思います。
 展示内容には、個人ワークとしてのグラフィックデザインに加え、セルフ・プロジェクトであるrabbit holeや、see-saw、COLONY CLOTHINGなどのクライアントワークを含みます。
 また4月2日の(土)の18時より、大阪を拠点に活動する詩人、辺口芳典さんをゲストにお招きし、言葉と文字をテーマにしたトーク「ことばのかたち」を行ないます。気軽で楽しい時間にしたいと思いますので、ぜひお越しください。
 会期中はなるべく会場に居りますので、この機会にぜひ遊びに来ていただければ幸いです。

【Magic Piece】

[会期]
4月1日(金)–3日(日)13:00–19:00
入場無料

〈トークイベント〉
「ことばのかたち」
鈴木篤(デザイナー)×辺口芳典(詩人)
4月2日(土)18:00–(2時間程度を予定しています)
入場料:500円(予約不要)*ドリンク持ち込み自由

展示会場でトークを行なうため、トーク中はゆっくりと展示を見ていただけないかもしれません。
展示をご覧になる場合は、トーク開始の前にお越しいただくことをお勧めします。

〈ゲスト・プロフィール〉
辺口芳典(へんぐち・よしのり)
詩人
2000年: Wasteland誌にて作家デビュー。
2006年: キヤノン写真新世紀優秀賞を受賞。
2010年: nobodyhurts から「女男男女女男女女女男女男男女男女女」を出版。
2011年: ドイツ、デュッセルドルフのゲスト・アーティストに選ばれ「ANTI FOTO」展に参加。
2014年: アメリカ、シアトルのChin Music Pressから詩集「Lizard Telepathy Fox Telepathy」を出版。
昨年はドラマー、美術家と共に朗読担当として「Double Good Artist in Residence
アメリカ・ツアーを行ない、詩人の活動範囲を着実に広げている。
辺口芳典ウェブサイト(近日中に公開予定)

[会場]
ミミヤマミシン
531 0071 大阪市北区中津3-18-6
Telephone: 06 7502 5205

[アクセス]
阪急「中津駅」より徒歩2分
地下鉄御堂筋線「中津駅」1番出口より徒歩7分
google map

備忘録「考える日々 全編」/2016.1.10
池田晶子さんの「考える日々 全編」を読んだ。この本は、1998年から2000年の3年間にわたる著者の「哲学エッセイ」をまとめたものです。「哲学エッセイ」とは著者が確立したジャンルで、その名のとおり、平易な日常の言葉を使って、世界や人間存在の不思議について考えた日記のようなもの。だから一編の文章は短く、その都度テーマは少しずつ異なるのですが、通底するものはずっと一緒で、そこにはより根本的な問いである「世界や人間が存在するとはどういうことか」が横たわっています。
 とても面白かったので、気になった点を備忘録として以下に要約しておきたい。

1.
哲学には「意見」というものがない。哲学とは常に真実とは何かについて「考える」ことであるから、私(著者)も「自分の」意見というものを持ったことがない。それが「自分の」意見である限りは「その人にとっての真実」という範疇を出ず、万人にとっての真実ではありえない。「自分の」意見を聞かせたいと思うのなら、「自分の」意見を述べるのをやめることだ。私(著者)はなんらかの真実を述べようと絶句しているような言葉に出会うと、全神経がそれを聞き取ろうと集中して構えるのを覚える。

2.
深海の魚は目をもたない。彼らが目をもたないのは、そこに光がないからで、光があるところに生存する魚は、目をもっている。光があるから、光りを見ようと、目ができたのであって、その逆ではない。そもそもそこにないものについて、器官は発達のしようがない。
 では脳はどうか。そこには先に「考え」があった。「考え」があるから脳ができたのだ。これを裏から言えば、宇宙が自分を考えるために、人間の脳を必要としたということだ。

3.
「考える」というのは、言葉で考えるのだと思っている人が殆どであるが、これは違う。考えているその現場、リアルタイムの最前線は、決して言葉によってはいない。なぜなら、考えるのは、分からないからであって、分からないことは未だ言葉にはなっていないはずだからである。

個々の要約について、僕は自分の考えを述べられるほどには咀嚼できていませんが(とくに2.の考えにはただ絶句したのみ)、本書を読みながら、世界に向き合って独力で「考える」ということだけが、本当の意味で考えるということだ。という当たり前の、そしてやはり絶句しそうな事実を再認識しました。

怪物さんと退屈くんの12ヶ月 全記録/2015.10.23
友人のバンドcore of bells(コアオブベルズ)が、2014年に行なった12ヶ月連続公演『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』の全記録を3rdアルバムとしてリリースします。鈴木はデザインを担当しました。半端じゃないボリュームの仕事は大変だったけど、彼らとの共同作業はとても刺激的でした。

core of bellsの活動を一言で表現することは出来ませんが、彼らは12公演=12曲という考えで公演を行ない、それらを新しいアルバム(音楽)として、記録や批評文を残すことを徹底してきました。
 約1年間をかけてじっくりと編集・デザインを行なってきた本作ですが、いよいよ明日と明後日(10/24,25)行なわれるcore of bellsの公演『Babyrussan Garden(バビルサンガーデン)』の会場にて先行発売されます。
 
「怪物さんと退屈くんの12ヶ月 全記録」は、12公演+全公演のダイジェストDVDが付いたBox Set、または公演ごとに単体での購入も可能です。

〈内容〉
批評文、スケッチ、写真、タイムテーブル、メンバーによる回想文、ライナーノーツ、
会計報告、ライブ音源(第5回公演と第12回公演のみ)

第1回公演 お気づきだっただろうか(2014.1.23)批評文:佐々木敦
第2回公演 moshing maniac 2000(2014.2.19)批評文:畠中実
第3回公演 Last Days of Humanity(2014.3.19)批評文:平倉圭
第4回公演 デトロイトテクノ人形(2014.4.23)批評文:木村覚
第5回公演 重力放射の夜(2014.5.20)批評文:椹木野衣
第6回公演 ウワサの真相(2014.6.23)批評文:三輪健仁
第7回公演 Time is Fuckin’ on Time(2014.7.23)批評文:九龍ジョー
第8回公演 子供を蝕むヘルパトロール脳の恐怖(2014.8.20)批評文:樋口泰人
第9回公演 メメント・コメント・ウィスパーメン(2014.9.17)批評文:細馬宏通
第10回公演 コアオブベルズ大爆笑(2014.10.13)批評文:杉本拓
第11回公演 DEATH MIX DEATH(2014.11.11)批評文:須川才蔵
第12回公演 ここより永遠に(2014.12.8)批評文:伊藤亜紗

〈価格〉
Box Set(上記の全公演+特典DVD):8,000円
第5回公演と第12回公演(ライブ音源付き):1800円
その他の公演:1000円
*価格は全て税込みです

新作公演『Babyrussan Garden(バビルサンガーデン)』でも、きっとこれまでに経験した事のない「音楽」を降臨させてくれること間違いなしです。core of bellsの音楽を知らない人も、是非一度体験してみてください。

怪物さんと退屈くんの12ヶ月 全記録
Babyrussan Garden(バビルサンガーデン)

9月8日/2015.9.8
朝から落ち着かず、無駄に掃除したり髭を剃ったりする。

外はあいにくの雨だけど、ちょうど二年前の今日は日曜日で、よく晴れていた。この日、弟と一緒に、亡くなった母に着せる服を選んだ。居間は明るくて光が心地良かったし、カーテンレールに母の服を吊るしてあれこれ相談する情景をよく覚えている。
 
ソファーで横になって目を閉じると、まだ若い頃の母が小さい僕をお腹の上にのせて微笑んでいる情景が思い浮かんだ。

そのまま目を閉じて一分間だけ死んでみる。そして目を開ける。

蝉/2015.8.27
中学生の頃、市が発行するフリーペーパーを配達するアルバイトをしていた。月に一度、小ぶりのボストンバッグにA4の束をどっさり入れて、近所の団地内を歩いてまわる。軽く走れば40分くらいで終る仕事で一回500円もらえた。いま思えば中学生らしくてなんか可愛いアルバイトですね。
 フリーペーパーは各家庭のドアポストに投函しなければならず、エレベーターのない5階建てを一軒ずつまわるのはそれなりに大変だったけど、制限時間を決めて、ちょっとしたスポーツのようにやっていた。
 夏の時期の宿敵は階段の踊り場で裏返っている蝉で、息を殺して通過しようとした瞬間、狂ったように羽をバタつかせる蝉にいちいち驚いていたし、今でも蝉のそういうところは好きじゃない。

きっと灼熱のアスファルトに、何の躊躇いもなく頭から垂直に落下したんだろう。そこにはすっかり頭の潰れた蝉が、めり込むようにして垂直に立っている。

いつからか僕の脳裏にはこんな光景が張り付いていて、未だに夢だか現実だか判然としない。
 夏。この不気味な光景を思い出すたびに僕は胸の血流が生暖かく移動するのを感じる。でも同時に、そこには僅かな安堵が混じっていたりするから不思議だ。蝉には圧倒的な生命力の表現があり、同時に死が内包されている。

夏が終わりに近づくと車で出掛ける場所がある。奈良の若草山。といっても目的は山頂ではなく、ドライブウェイの森に無数に存在する蝉だ。大群。想像がおよばないけど、何千という数だろうか。車を途中で降り、その群れが一斉に発するノイズの波を聴く。全方位から音の波が迫ってくる。しばらく聴いていると、音の全体が同調したり、一部が離れたりするのが分かるようになってくる。耳だけでなく全身で波音を聴くその時間はとても心地が良い。

それにしても不思議なのは、あれだけの大音量を発しているにもかかわらず、その音源である蝉の姿が殆ど見えないこと。目にする蝉の殆どは、踊り場で裏返る蝉か、抜け殻だ。

知りえない物語について想起すること /2015.8.13
「断片的なものの社会学」(岸政彦 著)とても良かったです。一般的な意味での社会学ではなく、そこからこぼれ落ちる、解釈しえない出来事や生の断片として様々なシーンが差し出されます。読み終わった今も、あの話は一体何だったのだろう、と、それらは記憶のどの場所にも定位出来ないまま漂っています。
 とくに「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」と題されたテキストが印象的で、上手く伝えられませんが、ここでは、一つの物語を引き合いに出しながら、この世界に満ちているが、誰の目にも触れない(知りえない)出来事の痛切さについて語られています。
 少し話は逸れるかもしれませんが、例えば小説の中で起こる様々な出来事を全て知り得るのは作者と読者だけであり、登場人物はその全体像を知らない。昔はよくこの単純な事実に何ともいえない不思議(小説の中に幽閉された人々の存在)を感じていたことを思い出します。
 人生の当事者である僕たちは他者のことを何も知りません。そして「知らない」ということの裏側には、だからこそ無限の出来事が存在し得るのだと思います。時々は、「知りえない物語について想起する」という、ある意味不可能な事態に立ち会ってみることも必要だと思うのです。
 著者は大阪在住で、鶴橋、天王寺、新世界、我孫子(あびこ)といった、関西に住む者なら馴染みのある場所が出てきます。また著者は僕が毎年訪れる沖縄とも縁が深く、この本で語られる出来事はとても身近なものとして感じられました。

ノイズ、本質と食事/2014.12.1
昨日、ローランド・シュティーガー氏(スイス/ザンクトガレン)と白井敬尚氏(東京)をお迎えして(コーディネーターは古賀稔章氏)、奈良県立図書情報館で開催された第一回KOTOBANOMORI「書物はその書物自身の運命をもつ」が無事に終了致しました。90名あまりの方にお越しいただきました。本当にありがとうございます。
 まだ記憶が鮮明なうちに、お二人のトークの中でとくに印象に残った箇所について感想を書いておきたいと思います。記憶をもとにした個人的な解釈なので、ゲストの意図とは違った捉え方になっているかもしれませんが。
 トークの後半で、21世紀の書体を考える上で必要なのは「ノイズ(視覚的な引っ掛かりや歪み)」という要素ではないか、という話になりました。そもそもニュートラルな書体というものは存在するのか。また、ニュートラルとされる書体にもある種の雰囲気というものが備わっているのではないか。といった意見が交わされました。
 「ニュートラル」という言葉は、フラットで無臭で中立的な何かを思い起こさせますが、その言葉には「インターナショナル」とか、もっといえば「モダニズム」という言葉に似た違和感があって、「近代化=西洋化」なのだから、おそらく近代化の中で形作られた「ニュートラル」も西洋っぽい(あるいはスイスっぽい)のではないか、と思うのです。ならばその言葉に「無臭」を感じてしまう僕は一体何なのだろう、とも。このことは今後も頭にとめておきたいと思います。
 それから、デザインを「食事」に例えられた白井氏の言葉がとても印象的でした。もし、食事の本質が「栄養」であれば栄養注射を打っていれば事足りるはずだが、我々はそうしない。いつ、どこで、誰と食事をするか。素材や味付けや調理法はどうするのか。どの道を通ってどの店へ行く?このように「栄養」以外の要素が「食事」を形作っている。同様に、書物の本質が「テキスト」であったとしても、我々はそれを本質以外のもの(インク、文字、レイアウト、余白、紙)を使って形作るのである。
 書体、スペーシング、レイアウト、素材、造本。それらの全てにおいて絶対的な解は存在しないけど、その都度の相対的な解は存在する。トーク全体をとおして、お二人のゲストのこのような姿勢は一貫していたように思います。デザインを考えるときに「必然性」という言葉をよく使いますが、必然性は常に相対的だから、全要素の微妙な関係性のなかで常に揺らいでいるのだと思います。

書物はその書物自身の運命をもつ/2014.11.10
企画と広報物のデザインで関わらせていただいている「KOTOBANOMORI(ことばの森)」が11月30日(日)に開催されます。
 「ことば」をテーマにした本企画の一回目は「書物はその書物自身の運命をもつ」です。内容はブックデザインに関するクロストークですので、ご興味をお持ちの方はぜひお越しください(要予約)。とても貴重な機会になると思います。詳細は以下のリンクをご覧ください。
 企画に先立って、会場でもある奈良県立図書情報館からご要望いただき、トークの内容に関連がある(かもしれない)推薦図書を選んでみましたので、以下に転記しておきます。

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』ウンベルト・エーコ/ジャン=クロード・カリエール著 工藤妙子訳(阪急コミュニケーションズ、2010)
電子化の波が紙の書物の存在を根本から揺るがすように言われる昨今ですが、博覧強記な記号学者と脚本家による対談は、本書中の「鶏が道を横切らなくなるのには一世紀かかった」という言葉のとおり、むしろ紙や書物というメディアの強さを認識させてくれます。

『「本」に恋して』松田哲夫著(新潮社、2006)
一冊の本がどのように形になっていくのか。紙やインクの作り方、製本の行程など、細密なイラスト入りで隅々まで語った本。著者の本に対する愛情が伝わってきます。

『文体練習』レーモン・クノー著 朝比奈弘治訳(朝日出版社、1996)
日常の他愛もない出来事を99通りの文体で書き分けた実験的な作品。仲條正義の装丁による本書では、それぞれの文体に共鳴するように文字が組まれており、二重に実験的。

『西洋書体の歴史』スタン・ナイト著 高宮利行訳(慶應義塾大学出版会、2001)
美しい図版とともに、古い写本から西洋書体の変遷を読み解く本。活字はもとより、デジタル書体にまで連なる字形の必然性は、筆記具や身体の動きと深く関わっていることがよく理解できます。

奈良県立図書情報館(イベント詳細ページ)

キャットテイル、「陸の果て、自己への配慮」/2014.8.14
母が遺したキャットテイルを時々手入れしている父に、「この赤いとこって花なんかな」と学術的なことを問うた僕に、「何聞いてるんか知らんけど、花だと思ったらそれが花じゃないのか」と言われハッとした。反論の余地なし。 リアルで、しかも絶対的に正しいことがあるとすれば、多分こういうことなのかな、とふと思った。
 二週間ほど前に、東京の友人二人と合流して福岡を旅した。博多で、詩人/グラフィックデザイナーの尾中俊介さんの仕事場にお邪魔したのだが、そのとき尾中さんにいただいたのが、ご自身がデザインを担当された「陸の果て、自己への配慮」(遠藤水城著)という本だ。
 この本は、著者が東日本大震災のあと(つまり福島第一原発の事故後に)青森から岩手、宮城、福島と、海沿いを約二ヶ月間徒歩で移動し、その間に付けた日記を(加筆修正しているものの)ほぼそのまま記したものだ。
 季節は冬。所持金は少なく、毎晩人目を避けてテントを張って眠る(夜中に寒さで何度も目を覚ます)。途中、人との交流は少なく、むしろ地元の人に怪しまれはしないかと怯えながらもひたすらに歩く。細かな描写はされないが、著者が歩きながら見る光景の殆どは瓦礫と茶色い低地(「荒涼とした光景の持続」)である。また同時に、そこには漠然とした夜や死者への恐怖がある(幽霊という意味ではない)。著者は徐々に疲弊し、精神をすり減らしてゆく。日記として淡々と描写される日々は全くドラマチックではないが、脚色のなさがかえってリアルに感じられる。
 路の終点は、災害対策基本法による立ち入り禁止の看板によって唐突にやってくる。旅の最後の一日を残して一旦「あとがき」が差し挟まれるが(著書はこの日までの行程を助走距離と呼んでいる)、それから最後の一日がはじまる。言わずもがな、ここには放射能の問題があり、その恐怖とすら身体的に向き合おうとする著者の切迫した心理状態が伝わってくる。
 あとがきで、著者は自身の日記を一旦振り返り、そこには「風景描写」が極端に少ない、と書いている。徒歩で移動するということは映像がゆっくりと持続してしまうことだ。だから例えば岬に到着するずっと以前から(「視界のなかの海の割合は、ゆっくり増加する」ものの)海は見えている。よって岬に到着したとしても感慨が湧くはずはなく、必然的に風景描写が少なくなるのだ、と。
 確かにそのとおりだ。日記を読んでいて、やったこと、行った場所、買ったもの、人との会話、感じたこと等は描写されているものの、風景描写はとても少ない。描かれていないことによって、結果的に心理的な状態が表現されてしまっているということ。それ自体にとてもリアルなものを感じた。
 遠藤さんは自分の精神と体力の全部を使い切って、その場所で起こっていることを感覚しようとされていて、その欲求の中心にはたぶんゴロっとした熱の塊というか、言ってしまえば優しさみたいなものがあると思うのですが、とにかくこの本には、僕らが知っていることとは全く別次元の現実が記されていて、読んでいて少し手が震えるような感覚がありました。

陸の果て、自己への配慮

DESIGNTIDE TOKYO 2012/2012.11.13
先日、デザイン・プロジェクトrabbit holeで出展させていただいたDESIGNTIDE TOKYO 2012が終了しました。今回もたくさんの方にお越しいただき、色々なご意見をいただきました。友人達との、また仕事上の様々な出会いがあり、今年も印象深い一週間となりました。
 色鉛筆を出品していたことから、図らずも小さな子供がたくさんブースに集まって、その場を離れようとしませんでした。このプロダクトにも多くの可能性を感じています。
 お越しいただいたみなさま、ありがとうございました。今後はより充実した活動を行なっていきますので、引き続き、どうぞ宜しくお願い致します。

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